誰にも見せなくても、丁寧に暮らす

SNSを開くと、光の加減まで計算されたような部屋の写真が並ぶ。木製のカトラリー、陶器のマグカップ、余白のある食卓。整えられた空間と美しい暮らし。そこには「丁寧な暮らし」というラベルが貼られている。

もちろん、あれはあれで素敵だと思う。整ったものを見ると気持ちも整う気がするし、美しい日常を見せてくれることに感謝さえ覚える。でも、ときどき違和感が湧く。あの暮らしこそが“丁寧”で、“正解”で、“理想”なのだと無意識に刷り込まれているような、そんな居心地の悪さ。

本当に「丁寧な暮らし」とは、あの美しい画角の中にしか存在しないのだろうか。そう思ったとき、自分の暮らしを振り返る。洗い物はなるべくその日のうちに片付けたいと思っている。朝ごはんは簡単でもいいから、きちんと用意して食べる。眠る前には湯船に浸かるようにしている。どれも地味で、誰かに見せたいようなことではない。でも、そういう小さなことを自分のためにやると、不思議と一日が違ってくる。

「自分を雑に扱わないこと」――それが、丁寧な暮らしの本質ではないかと思う。

SNSで見かける「丁寧な暮らし」は、どこか他者の視線を意識している気がする。見られることを前提とした美しさ、記録されることを想定した整い。だが、本当の“ていねい”は、誰にも見られなくてもそこにあるものだ。たとえば、誰もいない部屋でひとり、静かに湯船に浸かる時間。スマホも本も置いて、ただお湯の温度を感じながら自分の呼吸に意識を向ける。あるいは、夜の台所で使い終えた食器を一つひとつスポンジで洗い、清潔な布巾で拭いて棚に戻す。それだけで、心のざわつきがすっと静まる。

それは映えない。画面には映らない。でも、自分だけは知っている。今日という一日を、自分なりにきちんと終えられたことを。

“丁寧さ”とは、たぶん、姿勢なのだと思う。結果ではない。整った部屋や美しい朝食プレートは、その姿勢の副産物でしかない。見た目にこだわらずとも、自分に対して誠実であること。手間を惜しまないこと。すぐに投げ出さないこと。そういう小さな選択の積み重ねが、自分を大切にしているという実感に変わる。

最近、ようやくそのことが腑に落ちてきた。

他人の暮らしがまぶしく見える日もある。自分の生活が雑でみすぼらしく思えることもある。けれど、そこに振り回されすぎず、「今日はこれでよかった」と静かに思える時間が増えてきた。それは、見た目の話ではない。生活の内側に生まれる感覚だ。誰の目にも触れないところで、自分自身に対して丁寧であろうとする。そんな暮らし方が、いまはしっくりくる。

だからこそ思う。「丁寧な暮らし」って、別におしゃれじゃなくていい。ただ、自分を雑に扱わない。それだけで十分だ。

たっくす

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