人生というものを端的に表すならば、僕の場合、それは帰り道のコンビニで缶ビールを選んでいるときのあの穏やかな瞬間に凝縮されている。冷えた棚に並ぶ缶ビールを眺めながら、今日はどれにしようかと思案する時間。それは、まさに僕の人生そのものを象徴しているように思える。
みなさんはプライドというものを持っているだろうか。僕は自分自身について考えたとき、プライドがあるとは言い難い。正確には、プライドがないのではなく、もしプライドがあれば、これまでの僕の人生を許すことができなかっただろうと思う。過去を振り返り、その事実を突きつけられるたびに、僕は確信する。僕にはプライドがないのだと。
僕は中学受験をした。しかし第一志望には届かず、第二志望の、聞いたこともないような私立中学に進学した。大学受験もまた同じような道を辿った。第一志望には入れず、いわゆるMARCHと呼ばれる大学へ進学した。第一志望の私立大学を基準にしても、その上には国立大学や海外の名門大学がいくらでもある。それでも僕は、再び同じ失敗を繰り返した。
もし僕に一般的なプライドがあれば、中学受験の失敗を大学受験で挽回しようとしたはずだ。しかし、そうはならなかった。社会人になった今も、同期に勝ちたいという競争心や、早く出世したいという野心はない。世の中を変えるようなビジネスをしたいという壮大なビジョンもない。
アニメを観ると心が苦しくなる。なぜなら、その主人公たちはみな世界を変える存在だからだ。彼らの物語を前にすると、自分が主人公にはなれないことを痛感する。それでも僕の人生が完全に落ちぶれているわけではない。一定の収入があり、少しの我慢をすれば、それなりに悠々自適な生活を送れている。いわゆる平均点の人生といえる。
だが僕は、なぜプライドを持つことが怖いのかについても考えるようになった。プライドがあれば、人に負けたくないという感情が生まれ、出世したいや金持ちになりたいという欲望が生じるだろう。それらの感情が僕を突き動かし、何かに挑戦させる。だが挑戦には失敗が伴う。そしてその失敗を恐れている自分がいる。挑戦して失敗するくらいなら、挑戦しないで現状維持を選ぶ方がいいと思ってしまう。つまり僕の人生は、挑戦を避けることで成り立っているのだ。
そんな人生を情けないと感じることもある。情けないけれど、本当に挑戦し続けることが最善なのだろうかと疑問に思うこともある。自己啓発本や成功者の本には、挑戦しないことが悪であるかのような主張が並んでいる。僕は活字が好きなので、そういった本も読んできた。しかし、そのどれもが僕にはしっくりこなかった。
人によって幸せの定義は異なる。何か一つでも満足できることがあれば、それで幸せだと感じる人もいるだろう。僕にとっては、その幸せがコンビニで缶ビールを選ぶ時間なのだ。SNSが普及した今、煌びやかな人生を送る人々が注目されることが多い。それに憧れる気持ちがないわけではない。しかし、それを実現できるのはほんの一握りの人々だ。
それならば、仕事終わりに疲れた体でコンビニに立ち寄り、缶ビールを選ぶときに感じるあの幸せの方が、人生という一度きりの旅路における幸福度は高いのではないだろうか。僕には前世の記憶がない。だから、おそらく人生は一度きりなのだろう。
プライドのない僕の人生。しかし、それでも幸せである。このブログもまた、缶ビールを横目に記している。おそらく明日も、帰り道にどのビールを飲もうかと考えながら、何かしらの用事を済ませて帰路につくだろう。それが僕の人生だ。そしてそれは、案外悪くない人生なのかもしれない。
たっくす
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