虚無感と期待のはざまで迎える2025年

2025年1月3日、時刻は夕方18時。正月三が日の最終日。街は年末年始の喧騒を抜け、新年という名の静けさが漂う。僕は新橋にいる。特に理由があったわけではない。むしろ、三が日は家で静かに過ごそうと決めていた。しかし、予定外の衝動に駆られて外に出てしまった。外の空気を吸いたかった。それだけの理由だ。

新橋の空気が格別に清々しいわけではない。むしろ、その逆だ。けれども、家の中に閉じこもっていた心の澱を洗い流すには、これくらいのざらつきがちょうどいいのかもしれない。街にはちらほらと人影がある。どこか落ち着かない表情で歩く人々の姿が目につく。新年に喜びを感じている風ではなく、むしろ始まってしまったことへの戸惑いと虚無感に包まれているように見える。僕自身も、その一人なのだろう。

年の瀬は、まだ続く休暇への期待感があり、街全体が祭りのような熱気に包まれていた。それに対して新年の始まりはどうだろう。華やかに幕を開けたはずなのに、休暇の終わりがちらつき、焦燥感ばかりが心を支配する。新橋に立つ僕の胸にも、その矛盾した感情が静かに根を下ろしている。

今年は4日が土曜日だから、多くの人にとって仕事始めは6日の月曜日になるのだろう。つまり、年末年始の休暇は残り3日の数時間と、土日の2日間。思えば、時間はあっという間だ。気づけば休みは終わり、いつもの忙しい日常が僕たちを待ち受けている。年末年始の特別な時間は、まるで砂のように指の隙間から零れ落ちていく。

ふと、2025年という年について考える。どんな一年になるのだろう。あるいは、どんな一年にしたいと自分は思っているのだろうか。大きな目標を掲げたところで、それが現実のものになる保証はない。30年も生きてきて、目標を完遂できるような人間ではないことを痛感している。もちろん、新年早々悲観的になる必要はないが、劇的な変化を期待しても仕方がないのだ。

目標を立てないというのも一つの選択肢だ。流れに身を任せる生き方。それでいいと思っている。2024年以前がそうだったように、2025年もその延長線上にある。とはいえ、今年一つだけ心に留めたいことがある。見たり、聞いたり、感じたりするすべての物事を大切にすること。それは目標というよりも、心構えに近いものだ。

人生は短い。振り返ったときに「いろんなことをした。そして、いろんなことを感じた」と満足して終えられる人生にしたい。そのためには、今この瞬間に触れるすべてのものに心を開き、それを受け入れることが必要だ。そして、それらをこのブログに記していきたいと思う。僕が生きた証がここに残るのだ。

このブログは、多くの人に読まれているわけではない。むしろ、僕一人の自己満足の場だろう。それでも、自分の人生だ。好きに生きたっていいじゃないか。年が明けてまだ三日目の新橋の風景を眺めながら、そんな思いが胸に広がる。

2025年、どんな年になるだろう。僕が何を感じ、何を記すのか。未来の僕がこのブログを振り返るとき、そこにはきっと答えが刻まれているはずだ。今はただ、三が日の残りの時間を噛みしめながら、ゆっくりと歩みを進める。それでいいのだと思う。

たっくす

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次