僕は桜が好きだと、今ならはっきり言える。しかし、中学生や高校生の頃は、桜を好きだと感じたことはなかった。いや、正確に言えば、好きか嫌いかという感情すら抱いたことがなかった。桜はただそこにあり、春が来れば咲くものであり、その美しさに心を動かされることはなかったのだ。
桜の季節と言えば、お花見がつきものだ。人々は「桜を楽しむ」と口にしながら、実のところその背景にある宴を求めて集まる。僕にはそれが薄っぺらに映り、桜を愛でるという行為もまた、表面的なものでしかないように思えていた。花見客の笑い声や酔った人々の喧騒が春の夜を埋め尽くすその様子に、ポジティブな印象を抱くことはなかった。
そんな僕に転機が訪れたのは、大学2年生の春だった。一年前の大学1年生の春、僕は新たな環境への期待と憂鬱の中で、桜に目を向けることすらなかった。そもそも、僕がその大学に入学したのは第一志望に落ちた結果だった。入学式の日、門の近くに満開に咲く桜の並木を見て、「この景色を眺めるべき場所はここではなかった」と、心の中で叫んだことを今でも鮮明に覚えている。その瞬間、桜の花びらは憧れから遠ざかった証のように思えた。
それでも、大学生活が始まると、僕は少しずつその環境に慣れ、仲間たちとの時間を楽しむようになった。「それなりに楽しむ」という言葉では足りないかもしれない。実際には、世間一般の大学生と同じくらい、あるいはそれ以上に、毎日を謳歌していたのだ。新しい友人、課外活動、夜遅くまで語り合った日々。それは苦い思いから出発した大学生活を彩る鮮やかな記憶となって積み重なっていった。
そして迎えた大学2年生の春の夜。ある公園をふらりと訪れた僕は、心を奪われるような光景を目にすることになる。公園の中央に広がる池。その静かな水面には満開の桜が映り込み、まるで水の中にも桜が咲いているようだった。白い花びらが淡い光に照らされ、揺れ動く水の波紋がまるで生き物のようにその美しさを伝えていた。
その瞬間、頭の中にこれまでの桜との記憶が一気に押し寄せてきた。記憶の中で微かに揺れる小学校や中学校の入学式、そして卒業式の光景。風に舞う花びらをただ眺め、桜が咲き乱れる中で繰り返された季節の始まりと終わり。そのどれもが、僕にとっては脇役に過ぎなかったはずなのに、今はその一つ一つが重みを持って浮かび上がる。
僕はその時、桜の持つ真の魅力を知ったような気がした。桜はただの美しい花ではない。桜は記憶への扉を開く鍵であり、物思いに誘う舞台だ。咲くたびに、桜は過去の自分を呼び覚まし、その時に何を感じ、何を見ていたのかを問いかける。桜を見つめるその時間は、心の中に過去と現在を繋ぐ空間を作り出す。過去の僕が見ていた桜、今の僕が見ている桜、そしてこれから見るであろう桜。それらが一つの線となり、続いていくのだ。
この夜をきっかけに、僕はこれからも桜を見ていくのだろう。来年の春、咲き誇る桜を前にして、僕は何を思うだろうか。再来年には、その先の年には、桜を見るたびに何を感じ、どんな思い出が甦るのだろうか。桜は僕にとって、時間の流れと共に変わりゆく自分自身を映し出す鏡であり、思い出への入り口だ。
桜を見上げながら、僕は今この瞬間に生きていることを実感する。風が吹き、花びらが舞い散る。その中で、未来の僕がこの瞬間を思い出し、桜と共に懐かしむ姿を想像する。桜はこれからも僕と共に在り続けるだろう。静かに、しかし確実に、記憶を紡ぐ存在として。
たっくす
コメント