僕が沖縄の海に魅了された瞬間

僕は毎年沖縄に行く。理由は単純で明確だ。あの海に魅了されてしまったからだと思う。沖縄に心を奪われたのは、3年前の夏、中学時代の友人の結婚式で初めてその土地を訪れたときだ。それまでも、幼い頃の家族旅行で何度か沖縄を訪れた記憶はある。ただ、その時は単なる旅行先のひとつでしかなかった。幼少の僕にとって、沖縄は観光地の一つに過ぎず、海も名所のひとつに埋もれていた。

しかし、28歳のあの夏、僕の中に眠っていた何かが目覚めた。それは、ある意味で予想外の瞬間だった。友人の結婚式は北部で行われ、具体的な式場の名前は覚えていないが、式が終わった後、僕らは海を前にして無言で立ち尽くしていた。目の前には、夕日を浴びて静かに輝く雄大な海が広がっていた。何の合図もなく、誰もが水着を持参しているわけでもないのに、僕らは突如として海へ飛び込んだ。

28歳で、服装など気にせず飛び込む自分がいることに驚いた。学生時代の僕は、そんな28歳になる未来など想像もしなかっただろう。考えなしに海に飛び込むことは、大人になった自分の姿の中にはなかったはずだ。それでも、あの瞬間、僕の中には何か抗いがたい衝動があった。夕日に照らされた沖縄の海は、あまりにも美しく、ただそこに身を委ねたくなるほどの吸引力を持っていた。

その瞬間、僕が思ったのは「このメンバーで飛び込めたことが良かった」ということだった。海の美しさ以上に、一緒に海に飛び込んだ友人たちの存在が僕の心を満たしていた。彼らと一緒に過ごせたその時間は、僕にとって何にも代えがたい宝物だった。そのとき僕は、この仲間たちを一生大切にしたいと強く思った。

しかし、海から上がると現実が待っていた。僕らは全身びしょ濡れで、誰もが「帰りどうするんだ」と不満を漏らした。濡れた服のまま車に乗り込めば、レンタカーのシートは台無しだ。それでも、一時的な感情に身を委ねたことへの後悔も、1時間もすれば乾き切った衣服とともに消え去った。

那覇市に戻る頃には、予定していた服の一部が使い物にならなくなっていた。仕方なく僕は一人、ユニクロに向かうことにした。タクシーに乗り、店に近づくとメーターがちょうど上がった。しかし、その瞬間、運転手は僕にこう言った。「今上がったばかりだから、前の料金でいいよ」。わずか数十円の違いだったが、その寛容さに僕は驚いた。東京では決してありえない出来事だ。どれほどの少額であっても、料金のズレは許されないのが当たり前の世界に僕は生きてきた。

沖縄では違う。小さなことは気にしない。それは単なる適当さではなく、日々の暮らしに対するある種の哲学なのだろう。あの大きな海を見続けていれば、目の前の些細な誤差など取るに足らないものに思えてくる。タクシーの中で僕は、さっきまで身を委ねていた沖縄の海を思い出した。あの雄大な海の前では、僕が普段抱える些末な心配ごとは全て、まるで小石のようにどうでもいいものに思えた。

もちろん、時間を守ることや、きちんとすることの大切さはわかっている。ただ、それ以上に、小さなことを気にしすぎることが人の心を壊してしまうこともあるのだと、沖縄は教えてくれた。東京で生まれ育った僕は、必要以上に細かなことに囚われ、見えない重圧に押しつぶされていたのかもしれない。

その瞬間、僕は心の底から沖縄の海に魅了された。それ以降、僕は毎年のように沖縄を訪れるようになった。スキューバダイビングをするわけでも、バナナボートに乗るわけでもない。ただ、雄大な海を眺めるためだけに行くのだ。普段は小さなことにもこだわる東京での生活を送りながら、年に一度、いや時には数回、沖縄の海を見に行く。まるで、見失ってはいけない何かを探し求めるように。

沖縄の海は僕にとって、単なる観光地の海ではない。あの大きく、美しい海は、僕の心の錨のような存在だ。東京の喧騒の中で失われがちな自分自身を取り戻すため、僕はその海を求め続ける。青く広がる水平線の向こうには、僕がまだ知らない世界があるような気がしてならない。その世界に向かって、僕はこれからも沖縄の海に身を委ね続けるだろう。

たっくす

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次