僕はお台場が好きだ。好きといっても、単なる観光スポットとしての魅力ではない。お台場は僕にとって、現実から解放されるための扉だ。
新橋からゆりかもめに乗り、レインボーブリッジを渡ると、まるで異世界への旅が始まるような感覚を覚える。高層ビルと広告看板に囲まれた新橋とは打って変わって、目の前には煌びやかでどこか幻想的な風景が広がる。その一瞬の移動が、僕を非現実の世界へと誘うのだ。
お台場には、まるで街全体が「ここでは遊ぶべきだ」と主張しているような空気が漂っている。観覧車が回り、水辺の風が頬をなでるその場所は、どこか作られたテーマパークのようでありながらも、自然と人工物が絶妙に調和している。それに対し、新橋はどうだろうか。交差するスーツ姿のビジネスパーソンたち。立ち並ぶ居酒屋やカフェ、オフィスビルの隙間を行き交う人々。どちらの風景も、東京という大都市の一面を切り取ったものであるが、そのコントラストがより一層、僕にお台場の特異性を感じさせる。
日々の生活の中心は、間違いなく新橋だ。そこで僕は、都内のビジネスパーソンの端くれとして、会議や商談に追われ、時間に追われ、目の前の仕事に食らいつくようにして生きている。そんな僕にとって、新橋こそが現実の象徴だ。けれど、その現実を嫌悪しているわけではない。むしろ、新橋という地で過ごすことが、僕の生活そのものだと受け入れている。ただ、時折、その現実から少しだけ離れたいと感じることがある。その瞬間に僕が選ぶのは、お台場という選択肢だ。
ゆりかもめに乗り込み、窓越しに流れる景色を眺める。目を引くのは、レインボーブリッジの白いアーチと、その向こうに広がる空と海の広がり。橋を越えると、新橋で感じていたビジネスの重圧から、ふっと解放される瞬間が訪れる。それはまるで、映画のワンシーンのような儚さを帯びていて、僕の心を軽くする。そして、橋を渡ったその先には、いつもとは違う風景が広がる。観光客で賑わうアクアシティやデックスビーチ、そしてお台場海浜公園の開放感。そこに立つだけで、普段の喧騒とは無縁の別世界にいるかのような気持ちになる。
お台場に来たとき、僕が一番好きな場所は、アクアシティからレインボーブリッジを眺めるテラスだ。昼間の輝く海も美しいが、特に夕方から夜にかけての時間帯が格別だ。黄昏時、橙色に染まる空と橋、そしてその向こうに見える新橋のオフィスビル群。ライトアップされるそのビル群は、どこか遠くの星のように瞬いている。その風景を前にすると、不思議な安らぎを感じる。新橋で見ている景色と同じはずなのに、ここから見ると、まるで別の世界を覗いているかのようだ。
僕はこの対比に惹かれるのかもしれない。現実と非現実、ビジネスの街と観光の街、生活と遊び。ゆりかもめという一本の線路が、その両者を繋ぐ線として存在している。もしかすると、僕がお台場に非現実を見出しているというよりも、新橋を現実だと認識し、その現実から少しだけ逃れたいと思っているのだろう。だからこそ、橋を渡るたびに感じるのは、現実からの決別だ。新橋で生きる自分から、お台場にいる自分へと一瞬の変化を求める。けれど、その変化は決して長くは続かないことを僕は知っている。
非現実は、所詮非現実でしかない。お台場での時間を満喫した後には、再び現実に戻る時がやってくる。心のどこかで、それを理解しているからこそ、お台場にいる時でさえ、僕はレインボーブリッジの向こう側、新橋のビル群を眺めてしまうのだろう。目の前に広がる風景の中で、ほんのわずかに見える現実に目を向けること。それが、僕が非現実に飲み込まれないためのバランスなのかもしれない。
レインボーブリッジを渡り、新橋へと戻る道すがら、ふと考えることがある。あと何回、この橋を渡ってお台場へ行くだろうか。それはつまり、僕があと何回、自分の人生において非現実を求めるかという問いと同義だ。答えはわからない。けれど、現実から目を逸らしすぎることなく、それでもたまには非現実の中に身を置くこと。それが僕にとっての心のバランスなのだと思う。
無理に非現実を追い求めることはしない。普段は新橋という現実の中で、足を地に着けて生きる。けれど、どうしようもなく心が疲れたとき、僕はまたゆりかもめに乗り、レインボーブリッジを渡るだろう。そして、お台場の風景に身を委ねるのだ。その非現実を満喫し、心が整ったら、再び橋を渡り、現実に戻る。それを繰り返すうちに、僕は少しずつ、現実と非現実の狭間で自分の生き方を見つけていくのかもしれない。レインボーブリッジの向こうに見える新橋を、今とはまた違った目線で眺める日が来ることを期待しながら。
たっくす
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