先日、ついにMacを手に入れた。
何気ない一文に見えるかもしれないが、これは長年のWindowsユーザーだった自分にとって、大きな転機だった。機械のスペックやブランドの問題ではない。それは、選び続けた過去と向き合うような瞬間だった。
社会人になって以来、僕はずっとWindowsを使ってきた。企業で求められるのは汎用性と互換性。業務の流れに逆らわず、誰もが扱えるツールを選ぶのが自然だったし、最も効率的だと信じていた。Macに興味がなかったわけではない。だが、デザインや操作感に惹かれても、ビジネスの現場においては実用性が勝る。どこかで、「Macは遊び道具」という先入観すら抱いていた。
それでも、ある日を境に、心のどこかが揺れ始めた。
きっかけは、最新のiPadを手にしたことだった。掌に収まるデバイスが、こんなにも直感的で、なめらかで、美しかったことに衝撃を受けた。タッチの感触、スワイプの動き、何より思考に追いつく速さ。気づけば、iPhoneとiPadの連携に心酔し、Appleという世界に取り込まれていた。
そんな折、信頼する上司が「家ではMacを使っている」と、ふと漏らした。その言葉に、理由のすべてが詰まっていた。合理主義の彼が選ぶものには無駄がない。そんな人間が「Macが落ち着く」と言うのなら、それは単なる道具以上の価値がそこにあるということだろう。僕の中で、最後の一押しになった。
人生の選択とは、こうして積み重ねの果てに現れる。
ある日突然変わるようでいて、実はそれまでに何度も心が動き、手を伸ばしかけ、また引き返し、その繰り返しの先にようやく手にした「今」がある。
このMacBookのキーボードを打ちながら、そのすべてを実感している。
思えば僕の人生は、いつもそうだった。
大学生の頃、なんとなく手にした簿記の本が、税理士という職業へと僕を導いた。子どもの頃から母が言い続けてきた「資格を持ちなさい」という言葉が、耳に残っていたのかもしれない。無意識のうちに、それに従っていた。
結果として税理士法人に就職したが、今の僕はまったく別の業界に身を置いている。それでも、あの頃の選択がなければ、今の立ち位置に辿り着いてはいない。あの時、母の言葉を流していたら。あの時、資格本を手にしていなかったら。すべての「もし」が、今をかたちづくっている。
つまり、選択とは、いつも「今の自分」がしているようでいて、実は「これまでの自分」が積み重ねた結果でしかない。だからこそ、どんな選択も間違いではない。誰かに勧められたから。偶然、目にしたから。何気ない会話が残っていたから。そのすべてが、自分の中で交差し、やがて行動に転じていく。
たとえば、今夜何を食べるかすら、選択のひとつだ。
おそらく、僕は一蘭のラーメンを食べに行くだろう。昨日、何気なく交わした会話の中で「一蘭ってやっぱり美味しいよね」と誰かが言っていた。それだけの言葉が、今夜の僕の足を動かすかもしれない。
選択は、常に自分が主導しているとは限らない。
むしろ、無数の影響と記憶と感情のなかで、導かれていくものなのだと思う。そしてそれは、良い悪いではなく、ただの「事実」として積み上がっていく。
今、目の前にあるMacも、きっと未来の何かに繋がっていくのだろう。
この文章を綴った日が、どこかで新たな選択の起点になるかもしれない。そうやって、僕はこれからも選び続ける。
大きなことも、小さなことも。それらがすべて、僕という存在の輪郭を描いていく。
だからこそ、今日という選択にも意味がある。
無意識の中にこそ、意志が宿るのだと信じている。
たっくす
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