高校からの封筒がポストに届いていた。開けてみると、今年度の取り組み内容を紹介するリーフレットと、寄付金のお願いが丁寧に綴られていた。これまでも何度か同じような手紙を受け取ったことがあるが、今回はなぜか妙に心に引っかかった。
特に理由がある訳ではないが、寄付金を送る気にはならない。
が、学生時代を思い返すきっかけとなった。
当時、僕は自分なりに充実した高校生活を送っていたと思う。決して目立つタイプではなかったが、それなりに友達は多く、放課後に部活を終えたあとや、昼休みに教室の隅で語り合った仲間たちがいた。彼らとは時にふざけ合い、時に真剣に未来を語り合った記憶がある。
だが、今も付き合いがある友人は数えるほどしかいない。おそらく10人もいないだろう。当時、あれほど「一生の友達」だと思い込んでいた関係も、時間とともに自然と疎遠になってしまった。連絡を取らなくなった理由は、互いの生活の変化や、仕事の忙しさ、あるいはただの怠慢かもしれない。とはいえ、一度途切れた繋がりをもう一度結び直すのは、思っている以上に難しいことだ。
クラスメイトの中には、割と仲が良かったのに今では全く連絡を取っていない者もいれば、卒業後に偶然再会し、今でもたまに飲みに行くようになった者もいる。人生というのは、本当に何があるのかわからない。つながりが断たれたと思っていた相手と、予期せぬ形で再び結びつくこともあれば、ずっと付き合いが続いていた相手との関係が、ある日突然途絶えてしまうこともある。だからこそ、その時々の出会いと別れを丁寧に受け止めるしかないのだろう。
そう考え始めると、今付き合いのある友人たちも、この先数年、あるいは数十年後にどれほど残っているのかと、ふと心配になる。学生時代の友人たちで、今も繋がりのある者がこれほど少ないのなら、未来の僕にはどれだけの人が残っているのだろうか。おそらく、ほとんどいないのだろう。
それはなんだか、寂しい。寂しいけれど、それが現実なのだと、自分に言い聞かせるしかない。どれほど深い絆で結ばれたように思えても、どれほど一緒にいた時間が長くても、やがては別々の道を歩むことになる。すべての出会いは、一瞬の交差点のようなものだ。刹那的な繋がりでしかないのだと、頭ではわかっている。
しかし、こうした思い出の一つひとつが、僕の人生を形作ってきたのも事実だ。その刹那的な出会いの中には、今でも変わらず付き合いのある友人が数人いる。彼らとの繋がりは、単なる交差点ではなく、何度も道を交わしながら今もなお共に歩んでいるようなものだ。社会に出てからの忙しさや、互いに選ぶ道の違いによって疎遠になることは避けられないかもしれないが、だからこそ、今も連絡を取り合い、たまに飲みに行くような友人たちとの絆は、これからも大切にしていきたい。
高校時代の友人たちとの繋がりが途絶えたことは、別に彼らを責めたり、自分を責めたりするべきことではない。人は変わり、環境が変わり、そして価値観が変わる。それは避けられないことだ。ただ、今という瞬間を共有する人たちと、心の奥深くで繋がっていると感じられるなら、それで十分なのではないだろうか。
結局、僕にとっての人間関係というのは、長さではなく深さなのだ。どれだけの時間を一緒に過ごしたかではなく、どれだけ心に影響を与え合えたか。だから、たとえ数年後、数十年後に付き合いがなくなったとしても、その人たちとの思い出が僕の中に残り続けるなら、それは一つの「成功した関係」なのだと思う。
今、僕が連絡を取り合っている数少ない友人たち。彼らとの関係は、きっと今後もまた新たな形を取りながら続いていくだろう。これまで出会ってきた数多くの人たちが時と共に去っていったように、彼らとの繋がりもいつかは途絶えるかもしれない。それでも、今の僕にとって彼らはかけがえのない存在だ。過去から続く関係が今も残っているということは、数ある刹那的な出会いの中で、とても特別なものだからだ。
だからこそ、今この瞬間の付き合いを大切にし続けたい。未来を見据えながら、今の繋がりをしっかりと育んでいく。それが、僕にとっての人間関係の在り方なのだろう。刹那的であろうとも、その一瞬一瞬の輝きを大事にすることで、繋がりはただの断片ではなく、僕の人生の軌跡として残り続けるのだから。
そう、封筒一つが僕に思い出させてくれたのは、そんな小さな感傷だ。寄付金のお願いに応じることはなかったけれど、このチラシが僕の心をふと過去へと旅させ、今を見つめ直すきっかけを与えてくれたことには、感謝している。そして、これからも過去からの友人たちとの絆を、大切にしていこうと改めて思う。彼らとの関係を丁寧に育んでいくことが、僕の人生をさらに豊かなものにしてくれると信じているから。
たっくす
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