不可避な夜ふかし

夜の静寂の中で考えること

いつからだろう、夜の寝つきが悪くなったのは。深夜の静寂は、本来ならば人を眠りへと誘うべきものだ。しかし、私にとってその静寂は眠りの兆しではなく、思考の奔流が目覚める合図となってしまった。

平均的な人々が眠りにつくとされる時間、すなわち24時手前に訪れるあの穏やかな眠気。それは私にも感じられる。だが、24時を過ぎたあたりから突然、眠気は霧が晴れるように消え去る。まるで僕の体内のリズムが世間一般とは違う時間軸に沿って動いているかのように、心身は覚醒し、意識が冴え渡り始める。スマホの画面からは遠ざかり、ただ静かに目を閉じて眠りを待つ。しかし、訪れるべき睡魔は一向にやってこない。ただひたすら、閉じた瞼の裏で空虚な闇が広がるばかりだ。

一度、目が覚めてしまった脳は活動を始める。なぜだろう。なぜ、こうも眠れないのだろう。理由はおそらく、脳が最後の抵抗をしているからだ。今日という一日を終わらせてしまうことに対する反発かもしれない。まだやり残したことがあるのではないか。今日やるべきことをすべて消化しきれていないのに、果たしてこのまま眠りについてしまっていいのかと、脳が自ら問いかけてくるのだ。

本来、今日という日が終わるのは、日付が変わった瞬間というのが世間一般の理論だと思う。しかし、根っからの文系マンである僕にとっては、眠りにつくことこそが「今日」を終わらせる儀式のように感じられるのだ。眠りについてしまったら、もう今日という時間は二度と戻らない。そして、眠ることなく起き続けることこそが、今日という時間を守り抜くための唯一の方法であるかのように思えるのだ。

だからこそ、後悔が多ければ多いほど、僕は眠りたくないと思ってしまう。いや、「眠れない」という表現は適切ではないかもしれない。「今日」を終えてしまいたくないのだ。今日という日が充実していたと言えるのか。やるべきことをすべて終えたのか。胸を張って「これで良し」と言える一日だったのか。そんな疑問が脳内を支配し、いつしか眠気は完全に消え去り、心身はさらに覚醒していく。

しかし、睡眠不足は日常生活に支障をきたす。早急に解決すべき課題だということは、理性としては理解している。眠れない理由は何か?その問いに対する仮説が、やり残したことがある、やるべきことを消化していない、充実した一日ではなかったとするならば、それらすべてを解消すればいいだけの話だ。

ただ、言うは易し。毎日すべてのやるべきことを達成し、充実した一日を積み重ねることなど不可能に近い。私も無機質なロボットではない。気分にムラもあれば、状況によっては明日以降に対応すればいいと自らに言い聞かせ、目の前の課題を後回しにしてしまうことだってある。毎日毎日、365日すべてを充実感で満たすことは、理想ではあれど現実的ではないだろう。

結局のところ、そんな理想と現実の狭間で揺れ動きながら、僕はこれからも生きていくのだろう。眠れない夜は続く。今日という日を終わらせることへの最後の抵抗として、ベッドの上でただひたすらに目を閉じる。しかし、瞼の裏に広がるのは無為な黒い虚空であり、脳は相変わらず思考を止めることを知らない。眠れない理由を探し続け、解決策を考え続ける。

人が寝静まり、街も寝静まったこの世界で、僕は何をするわけでもなく、ただひとり眠れない理由について考え続ける。すべてが止まったかのように静まり返った深夜に、私の思考だけが孤独に漂い、眠れぬ理由を探す旅を続けるのだ。やがて、眠りの波が訪れるのか、それとも夜明けの光に包まれて眠ることなく新しい一日を迎えるのか。そんなことを考えながら、僕はまた今日という日を、曖昧なまま終わらせるのだろう。

たっくす

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