いつからだっただろうか。夜が、ただの夜ではなくなったのは。
かつては、闇が訪れれば自然と目蓋が重くなり、布団に身体を預ければやがて意識も沈み込んでいった。深夜の静寂は、日中の喧騒を洗い流す清水のようであり、眠りへと続く通路のように思えた。だが今では違う。静寂はもはや安らぎではなく、むしろ騒がしさの引き金になってしまっている。音のない世界に身を置くと、代わりに思考が目を覚ます。普段は意識の底に沈んでいる雑念や問いかけが、水面へと浮上し始める。
24時を手前に訪れる、あの穏やかな眠気。その存在は確かに感じられる。だが、針が0時を越えた瞬間、その眠気はまるで煙のように跡形もなく消えてしまう。ほんの数分前まで感じていた生理的な欲求が、何の前触れもなく裏切るのだ。この奇妙な現象にはもう何年も慣れきってしまった。もはや不思議とも思わない。ただ、僕の身体はこの世界と別の時間軸で生きているのだと、どこかで割り切っている。
眠る準備はとっくにできている。部屋の照明は落とし、スマートフォンからも手を引いた。何の情報も入ってこない静かな空間。目を閉じ、呼吸を整え、意識を空っぽにしようと努める。だがその努力は、毎度空しく終わる。眠気は来ない。思考が暴走を始める。
今日という一日は、果たして終えるに値する一日だったのだろうか。そんな問いが、脳内で何度も反芻される。まだやれることがあったのではないか。あのメールは返信したか。言い残したことはなかったか。やるべきことを、本当にやりきったのか。そんな問いに対し、脳は決して「はい」と答えてはくれない。どこかに取り残した小さな不完全がある限り、僕は今日を終えることを拒み続ける。
日付が変われば、それは世間的には「新しい一日」の始まりを意味する。しかし、僕にとっては違う。眠ることこそが、その日を終えるという行為なのだ。意識を手放し、記憶の記録装置をオフにすることで、ようやく一日が閉じられる。だからこそ眠るという行為は、僕にとって「今日」を確定させる最後の儀式であり、それを行う覚悟が定まらない限り、脳は眠りを拒み続ける。
結果として、眠りにつくことは「今日を終えてしまう」という事実の受け入れであり、それはある意味で「諦め」でもある。もっとやれたのではないか、という悔い。もっと感じられたのではないか、という焦り。そういった感情が、眠りの手前で僕の首を優しく、しかし確実に締めてくる。
とはいえ、寝ないまま翌日を迎えるわけにもいかない。睡眠不足は、集中力を奪い、体調を崩し、人間関係すら歪ませる。放っておける問題ではない。どうすれば眠れるのかと考えたとき、答えは単純だ。「やるべきことをすべて終え、悔いなく今日を終える」。ただそれだけだ。しかし、その「ただそれだけ」が難しい。
人生はいつだって未完のまま進んでいく。理想と現実は並走せず、交差もしない。完璧な一日など存在しないし、どこまで行っても「もっと良くできたのではないか」という思いはついて回る。そうやって僕らは常に何かをこぼし、拾いきれないまま次の日へと進んでいく。
それでも、僕の中には「完結させたい」という欲がある。今日という日を、自分の納得のいく形で閉じたい。だからこそ、眠りたくない夜が訪れる。満足していないからではなく、納得していないからだ。「これでよかった」と言えないまま、時間だけが過ぎていく。その時間に抗うために、僕は起き続ける。
静まり返った世界で、ただ一人、眠れない自分だけが取り残されているような感覚。その孤独がまた、眠りから僕を遠ざける。思考は止まらない。いや、止めようとしていないのかもしれない。考え続けることが、眠らない理由であり、今日を終わらせたくない僕の最後の抵抗なのだろう。
夜が深くなるほど、世界は凪いでいく。車の音も、人の声も、何もかもが止まる。その中で、僕だけが目を覚まし続ける。考え続ける。まだ終わっていない今日にしがみつきながら。やがて、眠気が訪れることもある。ふとした瞬間に、思考の波が落ち着き、意識が沈んでいくこともある。けれどそれは、自ら望んだ結末ではない。あくまで流れに任せた偶然の産物。僕は、今日を意図的に終えたわけではない。ただ、力尽きただけだ。
そして朝が来る。眠れなかった夜の後悔とともに、新しい一日が始まる。昨日を終えることができなかったまま、今日が始まってしまう。この感覚がまた、次の夜の不眠を呼び寄せる。そうしてループは続く。終わらせられなかった一日と、始まってしまった一日。その狭間で揺れながら、僕は眠れぬ夜を重ねていく。
何かを変えなければならないと、どこかでわかっている。けれど、今夜もまた目を閉じて、何も見えない瞼の裏で、今日という一日に問いかけ続けるだろう。「本当にこれでよかったのか」と。
たっくす
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