自分とは何か、という問いに囚われて
中学二年生の代数の時間だった。教室の窓から差し込む午後の日差し、黒板に書かれた数式、教師の単調な声。その中で、ふと妙な疑問が頭をもたげた。「自分とは何なのだろう?」それまでは自分が自分であることに、何の疑いも持たずに過ごしていた。それが突然、解けない代数の問題のように、脳裏に貼りついて離れなくなった。
「なぜ、人は自分のことを僕や俺、あるいは私と呼ぶのだろうか?」
考えてみると、奇妙だ。自分は一人しかいないはずなのに、自分を指す言葉がいくつもある。そして、言葉を変えることで、まるで違う自分がそこに存在するような感覚になることもある。「僕」という言葉には、どこか柔らかさと親しみがあり、「俺」には自信と自己主張が漂う。さらに「私」となると、距離感や礼儀正しさが強調される。
一体、どれが本当の自分なのか?そして、それらはすべて同じ自分を指していると言い切れるのだろうか?この問いは、まだ思春期に足を踏み入れたばかりの少年には手に余るほど大きなもので、代数の問題の答えを導き出すよりも、ずっと難解に思えた。
月日は流れ、大学生になった。講義とアルバイトに追われる日々の中で、あの問いがふと蘇ることがあった。何の本かはもう覚えていない。だが、その本に書かれていた一文が、あの時の自分にとって、ひとつの解答のように感じられた。「自己とは、他者の他者である」と。つまり、自分という存在は、他者が自分をどう見るかによって形成されるものであり、自分の内面だけで完結するものではない、ということだ。
「他者の他者」とはどういう意味なのか?それを理解したとき、長年のモヤモヤが少しだけ晴れた気がした。例えば、親しい友人といるときの「僕」は、安心感と自己開示の欲求が形作るものであり、ビジネスの場で使う「私」は、緊張感と自己防衛の産物だ。同じ自分でありながら、相手によってその姿を変えている。そう考えると、自分というものはひとつではなく、複数存在しているのではないか?そうであるならば、「本当の自分」とは何なのだろうか。問いはより一層、複雑な迷路のように深まっていった。
今年、30歳を迎えた。中学二年生の頃に感じた疑問は、すっかり過去のものだと思っていたが、最近になって再び頭をもたげ始めた。それは、ちょっとした言葉のやり取りや、友人との会話の中に顔を出し、静かに私を取り囲む。あの時のように焦燥感を伴うものではない。むしろ、どこか諦めにも似た感覚がある。
「自分探しの旅に出る」と言えば聞こえはいいが、この問いに対しては旅に出たところで答えは見つからないだろう。自分とは何か、という本質的な問いに向き合うことは、砂漠の中で水を探すようなもので、表面的な自己認識を超えた、もっと奥深い領域での探求を必要とする。たとえその答えに辿り着いたとしても、何の役にも立たないことは明らかだ。日々の生活は何も変わらないし、仕事ができるようになるわけでもなければ、魅力的な人間になれるわけでもない。ただ、どうしてもこの問いが頭から離れないのだ。
考えても仕方のないことだと思う。結局、僕はそれを解決するほど頭のいい人間ではないし、人生の最後までこの問いに対する答えが見つからないまま終わるのだろう。それでも、どこかに答えがあるのではないかと、どこかで見落としているのではないかと、心の片隅でわずかに期待している自分がいる。
普段はこの問いを忘れて過ごしている。仕事が始まれば目の前の課題に集中し、友人と会えば楽しさに身を任せる。そうして、無意識のうちに「自分とは何か」という考えから目を逸らし、日常という波に身を任せる。だが、ふと一人になったとき、静寂の中でその問いが再び蘇る。
「自分とは何だろう?」と。社会の中で異なる役割を演じ、時に矛盾するような振る舞いをしながら生きる自分。もしかしたら、自分とは確固たる一つの存在ではなく、流動的で移り変わるものなのかもしれない。
「他者の他者としての自己」という考え方に初めて触れたとき、全てが腑に落ちた気がした。しかし、それが本当に答えだったのかは分からない。なぜなら、今もなお、その問いは私を捉え続けているからだ。
こうしてまた、同じ問いに立ち返り、迷い続けることになるのだろう。だが、答えが出なくてもいいのかもしれない。自分とは何かを問い続けること自体が、自分という存在を形作っているのだと、そう思えてきたからだ。たとえその先に何も見出せなかったとしても、問い続けることが、生きるということなのだろう。
たっくす
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