目の前に、サクレレモンが二つ並んでいる。冷房を必要以上に効かせた部屋の中で、僕は一つを手に取り、口に含んだ。噛み締めるたびにシャリシャリとした音が響く。それ以外、この部屋には何も音がない。
この冷たい部屋には、おばあちゃんのぬくもりはもうない。思い出だけが静かに流れる。今日、僕は初めてサクレレモンを二つ買った。一つは僕が食べるため、もう一つはおばあちゃんのために。
サクレレモンとは、レモン味のかき氷に薄くスライスしたレモンが一枚だけ乗ったシンプルなデザートだ。おばあちゃんが好きだった。その淡い黄色のレモンを、いつも大切そうに食べていた姿を、僕は今でも忘れられない。
僕はいつもレモンから食べ始める。だが、おばあちゃんは違った。外した蓋にそっとレモンを置き、氷の部分を食べ終えてから、最後の一口としてそのレモンを口に運んだ。僕にとっては何気ないその仕草が、おばあちゃんの生き方そのものだったのかもしれない。少しずつ味わい、ゆっくりと、最後まで残さず生きていく。そんなおばあちゃんが、先日亡くなった。
僕はおじいちゃん子であり、おばあちゃん子だった。小学生の時、両親が離婚し、僕は母と姉と共におじいちゃんとおばあちゃんの家に引っ越した。母は僕たちのために朝から晩まで働いていた。自然と、僕はおじいちゃんとおばあちゃんと過ごす時間が増えた。
だが、僕がその生活に慣れた頃、おじいちゃんは亡くなった。残されたのはおばあちゃんと僕。僕はおばあちゃんに箸の持ち方を教わり、掛け算を教わった。そんなふうにおばあちゃんに育てられ、小学生としての僕の人格は形作られていった。母と二人だけでは、僕は寂しい想いをしていたかもしれない。そう思うと、僕の心は感謝の念で満たされる。
中学、高校、そして大学へと進むにつれ、僕の生活の中でおばあちゃんの存在は少しずつ薄れていった。僕が成長し、自分の世界を広げていくのと反比例するように、おばあちゃんは小さく、静かに老いていった。
大学に入って数ヶ月が過ぎたころ、家族からおばあちゃんの様子が変だと聞かされる。火をつけっぱなしにする、同じ話を何度も繰り返す――最初はそんな些細なことだった。しかし、次第におばあちゃんは遠い場所へ行ってしまったかのようだった。
病院で「認知症」と診断され、母はおばあちゃんを元に戻そうと必死だったが、すべては徒労に終わった。おばあちゃんは、僕が知っている「おばあちゃん」ではなくなっていった。箸を持つことも、笑顔を見せることも、最後には僕の名前すらも忘れた。僕は、そんなおばあちゃんが嫌いになった。認知症で仕方のないことだと理解していながらも、受け入れられなかった。時には冷たい言葉をぶつけることもあった。
おばあちゃんはやがて、施設に入った。僕が見舞いに行くと、穏やかに天井を見つめていることが増えていた。かつての気品は影を潜め、ただひたすらに無言の時間が流れる。そんなある日、母の提案で、おばあちゃんを連れて家族旅行に行くことになった。おばあちゃんがずっと行きたがっていた伊勢神宮へ。旅の途中、僕はおばあちゃんと二人きりの時間を得た。
「旅行は楽しかった?」
おばあちゃんは、微笑んだ。「すごく楽しかったよ」と。その表情は、僕が知っているおばあちゃんのものだった。心の奥に閉じ込めていた感情が一気に溢れ、涙を抑えきれなかった。最後におばあちゃんに会えた気がした。それから、おばあちゃんは徐々に体調を崩し、やがて意識を失った。
コロナ禍で面会すら許されない日々が続き、おばあちゃんが危篤だと連絡を受けたのは、突然のことだった。最期におばあちゃんの側にいたのは母だけだった。僕は病室に駆けつけたが、そこにいたのは、既に息を引き取ったおばあちゃんだった。
「ありがとう」と、僕は声を絞り出した。おばあちゃんの顔は冷たく、かつての温もりはどこにもなかった。
母が諸々の手続きのために部屋から出て、祖母と二人きりになった部屋で、僕は涙をこらえることもせず、声を出して泣いた。
その時、思い浮かんだのは、僕が子どもの頃、おばあちゃんと一緒に食べたサクレレモンだった。
「将来、稼ぐようになったら、毎日でもサクレレモンを買ってあげるよ」
そう言った僕に、おばあちゃんは優しく微笑んでいた。その顔が頭に焼き付いて離れない。僕は約束を守れなかった。おばあちゃんが変わってしまったからという理由で、サクレレモンを買ってあげることすらしなかった。
悔しくて、悲しくて、僕は声を上げて泣いた。
あの日以来、僕は初めてサクレレモンを二つ買った。一つは、僕が食べるため。
もう一つは、冷たくなったおばあちゃんのために。
僕はかき氷の部分を食べ終え、蓋に乗せておいたレモンを最後に食べ、空っぽになった容器をそっと蓋を閉じる。
おばあちゃんのそばに置いたサクレレモンは、今もなお、量が変わっていない。
冷房の音と、すすり泣く僕の声だけが、部屋の中に響いていた。
もし、もう一度おばあちゃんに会えるなら、サクレレモンを二つ買って、二人で食べたい。
そして、もう一度だけ伝えたい。
「ありがとう、おばあちゃん」
そう言って、僕はサクレレモンを食べ続けるだろう。冷たいかき氷を口に含みながら、溢れ出る涙を止められないまま。どれだけの感謝を言葉にすれば、おばあちゃんに伝わるだろうか。きっと、永遠に伝えきることはできないだろう。だが、それでも僕は感謝を伝え続ける。
僕はおばあちゃんのためにサクレレモンを買ってあげられなかった。
それが唯一の後悔だ。だが、今、この冷えた部屋で、僕はおばあちゃんと一緒にサクレレモンを食べている。
僕の隣には、確かにおばあちゃんがいる気がして。静かに、穏やかに。僕のすぐそばで、あの優しい微笑みを浮かべているような気がして。だから僕は、もう一度、心の中で囁く。
「ありがとう、おばあちゃん。僕のおばあちゃんでいてくれて、本当にありがとう。」
そして、僕は最後に残った薄いレモンを口に運んだ。
冷房の音と、僕のすすり泣く音が、かき氷のシャリシャリという音に溶けていった。
たっくす
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