夏の終わりに感じる虚しさ

9月21日、焼けるような暑さが嘘のように和らいだ。ここ数週間の熱波が過ぎ去り、街の風景もどこか落ち着きを取り戻したかのようだ。しかし、外を歩けばまだ汗が滲む。季節は変わりつつあるが、夏の名残は身体に残っている。特に夜、冷房を無意識に付けたまま過ごしているが、気づけば設定温度を下回っていて、冷房は静かに停止している。何かが終わる、夏が終わる。そう感じ始めている。

夏の終わりには、どこか虚しさが付きまとう。子供の頃、夏休みの終わりが寂しかった理由は明快だ。楽しい日々が終わり、学校生活が始まるという現実が迫っていたからだ。だが、大人になった今、夏休みという特別な期間がなくなったにもかかわらず、やはり夏の終わりに虚しさを感じる。あの感覚は、ただ単に季節の移ろいに対する感傷ではない。何か大きなものが終わる瞬間にこそ、人は虚しさを感じるのかもしれない。

ふと、何事にも「終わり」があることを思い起こす。旅行の最後、帰りの飛行機や新幹線の中で、どこか寂しい気持ちに包まれた経験は誰にでもあるはずだ。思い返せば、舞浜の遊園地に行った帰りも同じだった。楽しい時間が過ぎ去り、それが永遠に続かない現実に直面した時の寂しさ。東京駅の京葉線から乗り換えるために長いエスカレーターに乗った時、その疲労感が一層強く感じられたのも、単なる身体的な疲れだけでなく、心に生じた喪失感が作用していたからではないだろうか。そうでなければ、あの長い道のりがあれほど重く感じるはずはない。

楽しい時間ほど、その終わりが近づくにつれて虚しさが増してくるのは、理屈としては当然だ。楽しさが大きければ大きいほど、その反動として虚しさや儚さがやってくる。それは人間の感情の構造なのだろう。逆に言えば、虚しさを感じる瞬間こそ、その前に自分がどれだけ楽しい時間を過ごしていたのかを実感できるタイミングでもある。虚しさが濃く感じられる時、それは充実した瞬間を生きていた証拠だと考えれば、少しはその感情も軽くなるだろうか。

こうした考えをさらに俯瞰してみると、人生の「終わり」について思いを馳せることになる。僕がこの世を去る時、一体どんな感情を抱くのだろうか。楽しさや充実感に満ちた人生であればあるほど、その終わりには虚しさや儚さが待ち構えているのだろうか。もしそうだとしたら、それは少し嫌な話だ。できれば人生をやりきり、満足し、笑顔で何も後悔なく終えたい。人生の終わりに虚しさを抱えるのではなく、充実感とともに終わることが理想だ。

もっとも、その時が来るまでは自分がどんな感情を抱くのかは分からない。そして、もし寿命を全うすることができたなら、それはきっとずっと先の話になる。人生の最後の瞬間に、どんな感情でそれを迎えるのかは、その時の自分にしかわからないことだ。それに、もし人生の終わりが来たなら、その感情をこのブログで報告することも叶わないだろう。だからこそ、今、この瞬間に思いを巡らせることに意味があるのかもしれない。

たっくす

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