「何者」にもなれない人生だが割と満足

30歳になって、ふと振り返ると、自分の人生が誇れるものだとは到底思えない。自分の中に誇りを感じたことがないし、他人に誇れるような人生を歩んできたとも思わない。だが、それは決して「悪い人生だった」という意味ではない。犯罪を犯したり、人に迷惑をかけたりしたわけでもない。ただ、自分の人生が他人に話すほどの立派さがあるかと言われると、そうではないと感じるのだ。

小さい頃、誰もが「何者」かになりたいと思っていた。世界に自分の名前を刻むような、大きな何かを成し遂げる未来を夢見ていたはずだ。しかし、30歳になった今、特に「何者」でもない自分がここにいる。何も成し遂げていない。偉業を達成するでもなく、誰かの記憶に特別な存在として残るわけでもない。結局のところ、人生なんてそんなものだと気付くのだ。大半の人は、「何者」かになれないまま、静かに日々を送る。

けれども、それが悪いことかというと、そうではない。むしろ、今振り返ってみると、僕の人生は案外満足のいくものだったと感じている。確かに、他人に誇れるような大きな業績はないが、日々をそれなりに楽しみ、それなりに苦しんで、過ごしてきた。そして、今もそうだ。おそらく、この先も誇り高き人生を歩むことはないだろうが、それでも満足している未来が見える。最終的に死ぬ時も、「誇れる人生ではなかったが、楽しかった」と言って終わる気がする。

では、なぜ誇れる人生を歩んでいないのに、こんなにも満足しているのだろうか。これは一つの仮説に過ぎないが、答えはおそらく「周りの人々に恵まれていたから」だと思う。

学生時代を振り返れば、僕は友人にも先生にも恵まれていた。学校生活は、いつも誰かと一緒にいる時間が多かった。決して人気者というわけではなかったが、気の合う仲間たちがいて、一緒に笑い、時には真剣に議論を交わした。その友人たちとは今でも年に数回集まり、飲みに行く。年月が経っても、変わらない関係を築けていることに感謝している。

社会人になってからも、僕は良い先輩や同期、そして後輩に恵まれた。職場での人間関係は、時に仕事そのものよりも重要だと感じることが多い。仕事が辛い時、励ましてくれる人がいるだけで、その苦しさは半減する。逆に、仕事が上手くいって楽しい時、その喜びを共有できる人がいるだけで、楽しさは倍増する。転職しても、前職の同僚たちとは未だに旅行に行ったりする関係が続いている。

振り返れば、僕の人生には常に誰かがいた。楽しい時も、辛い時も、僕の周りには人がいて、共に喜び、共に苦しんでくれた。その存在があったからこそ、僕の人生はより豊かになったのだ。だからこそ、僕は今、感謝の念を強く抱いている。これまでの人生で成し遂げたことが少ないとしても、僕が満足できるのは、周りの人々に支えられてきたからに他ならない。

このように感じたのは、特に大きな出来事があったわけではない。週末のある日、仕事のことを考えたり、休みが終わってしまうことを嘆いているうちに、ふとそんな考えが浮かんできた。週末というのは、普段は考えなくてもいいようなことが、自然と頭をよぎる時がある。おそらく、多くの人も同じように、日々の喧騒から離れた時に、自分の人生を見つめ直す瞬間があるのだろう。

人生というのは、期待外れの連続だ。子どもの頃に夢見た未来とはかけ離れた現実が目の前に広がっている。だが、それが悪いとは限らない。期待通りにならないからこそ、そこに驚きや喜び、時には悲しみが生まれる。何もかもが計画通りに進む人生よりも、想像を超えた出来事がある方が、振り返った時に満足感を得られるのかもしれない。

今、僕は自分の人生に大きな不満を持っていない。誇れるものはないが、幸せだと感じる瞬間が多かった。きっとこれからも、その瞬間は訪れるだろう。そして、その時々に支えてくれる人たちがいることを信じている。感謝の気持ちを忘れずに、この先も歩んでいこうと思う。

人間は一人では生きられない。どれだけ孤独を感じても、どこかで誰かが僕を支えてくれている。その事実に気づくことが、今の自分を満足させてくれる要因だ。だから、誇れるかどうかは大した問題ではない。大事なのは、満足できるかどうか。それを支えてくれるのは、周囲の人々であり、彼らのおかげで僕はこれからも歩き続けることができるだろう。

たっくす

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