“当たり前”の崩壊が教えてくれること

朝が来ること。
目を覚ませば、同じ天井が見えること。
冷蔵庫を開ければ冷たい空気が頬を撫で、蛇口をひねれば水が流れること。
そうした日常のかけらを、人は疑うことなく「当たり前」と呼ぶ。

だが、当たり前は脆い。
ある日、それが唐突に崩れることがある。
前触れもなく、警告もなく、静かに、それでいて容赦なく。

震災の朝、いつもの通勤電車は動かなかった。
コンビニの棚は空になり、街からは音が消えた。
SNSに溢れた「無事ですか?」の文字列に、日常は非日常へと反転した。

あるいは、ある日届いた一通の手紙。
病名の記された封筒を開いた瞬間に、時間の流れが変わる。
昨日までは無限のように広がっていた未来が、急に狭く、重たくなる。
健康であること、呼吸ができること、歩けること。
すべてが、当たり前ではなかったことに気づく。

誰かを失った日もそうだ。
声をかければ返ってくると思っていた存在が、突然この世界から姿を消す。
交わされた言葉が最後になるなんて、誰が思うだろう。
「また今度ね」と笑った別れが、永遠になることもある。

当たり前が崩れるとき、心は激しく揺れる。
その揺れは、悲しみや不安として表に出るが、本質はもっと静かで深い。
それは、「世界が思ったよりも不安定である」という気づきだ。
そして同時に、「自分がいかに多くのものに守られていたか」という理解でもある。

壊れて初めて、支えられていたことを知る。
無くして初めて、そこに在ったことを知る。

当たり前の崩壊は、残酷であると同時に、優しくもある。
すべてをゼロにするその衝撃の中で、残されたものの輝きがより際立つ。
食卓に並ぶ湯気、眠る前の静けさ、誰かのただいま。
それらが、かけがえのない奇跡だったと教えてくれる。

人は変化を恐れる生き物だ。
だが、変化のない世界など存在しない。
花は枯れ、建物は朽ち、言葉は忘れられ、人もまた変わっていく。
それを受け入れることは、痛みを伴う。
しかしその痛みは、感受性の証であり、生きているという実感の表れでもある。

「壊れたからこそ、見える景色がある」
この言葉は、よくある慰めにも聞こえるが、実際にそれを体験した者には、重く、そして深く響く。
崩れた日常のなかにこそ、新しい価値観が芽吹く。
光を知るためには、暗闇が必要なのだ。

当たり前が崩れると、人は立ち止まる。
そして、自分自身に問い直すようになる。
何が本当に大切なのか。
何を守りたいのか。
どこまでが欲望で、どこからが祈りなのか。

その問いに明確な答えはない。
けれど、問い続ける姿勢そのものが、人を成熟させる。
当たり前を疑い、見つめ直し、感謝を宿すこと。
それが、崩壊の向こうにある希望だ。

今、あたりまえにあるこの瞬間が、いつか失われるかもしれない。
その不確かさを抱えながら、それでも今日を生きる。
そしてもし、明日も同じように朝日が昇るなら、
それは祝福に値する「奇跡」なのだ。

たっくす

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