人は、忘れる生き物だ。
名前を忘れ、顔を忘れ、あれほど胸を締めつけた出来事でさえ、時間が経てば輪郭を失っていく。
かつての痛みや喜びさえも、まるで夢の断片のようにぼやけてしまう。
そうして記憶の奥に沈んだものを見つめるとき、ふと問いが浮かぶ。
——忘れるということは、弱さなのか、それとも強さなのか。
感情の余白に根を張るこの問いは、日々を重ねるほどに重みを増す。
忘れることに、罪悪感を抱いた経験がある。
喪失の直後、あの人がいなくなった事実を毎晩思い返しながら眠った。朝になっても心に影が残り、言葉の端々にその面影を探すような日々だった。
けれど、月日が過ぎ、笑える日が増えた。思い出す回数が減っていった。そして、ある瞬間に気づく——「最近、あの人のことを考えていなかった」と。
そのとき胸に広がるのは、ほのかな裏切りのような感覚だ。まるで、大切にするべき記憶を手放してしまったかのように。
だがそれは、決して裏切りなどではない。
人間の心は、全てを背負って生きていくには、あまりに脆い。
悲しみも、後悔も、怒りも、すべてを鮮明なまま保存していくとしたら、歩くことさえ困難になる。忘れるというのは、心が壊れないための防衛本能だ。
悲しみを一時的に封じ、痛みを時間とともに薄める。
それは、自分を守るために必要な力なのだ。
しかし同時に、忘れることには危うさもある。
痛みを忘れることで、同じ過ちを繰り返してしまうことがある。
傷つけられた経験を忘れ、また誰かに裏切られる。
過ちを忘れ、他者の痛みを想像する力が鈍る。
つまり、忘れることで「優しくなれなくなる」のだ。
だから本当の強さとは、すべてを忘れることではない。
忘れ去ることと、手放すことは違う。
必要なのは、痛みのすべてを記憶に留めることではなく、記憶の重さと共に生きる術を覚えることだと思う。
たとえば、愛した人の声が思い出せなくなっても、その人がくれた安心感だけは、胸に残して生きていく。
失敗した瞬間の悔しさは忘れても、あのときの誠実さだけは忘れずにいる。
そういうふうに、記憶の中から大切な核だけを残して、それ以外はそっと風に流していく。
それは、逃げではなく、歩くための選択だ。
忘却とは、決して負けではない。
むしろ、ある種の再生なのかもしれない。
焼き尽くされた大地のように、何もかもが消えたように見えても、その土の下には次の芽が息をひそめている。
記憶の終わりは、いつか始まる新しい感情のための余白でもある。
だからこそ、今日も私は少しずつ忘れていく。
完全にではなく、優しく。
痛みも、恥も、幸福も、記憶のなかに埋もれながら、それでも生きていく。
そして、ふとした拍子に思い出すのだ。——あの日の夕暮れや、あの人の声を。
その時、胸の奥でそっと揺れる温もりこそが、忘却と記憶のあいだに咲く、本当の強さなのだと思う。
たっくす
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