制約からの幻想的な解放

大人になるとは、いったいどういうことなのだろうか。

その問いを抱いたのは、ふと街の喧騒を抜けた路地裏で、子どもたちが夕陽の中を駆け抜ける姿を見かけたときだった。僕は立ち止まり、なぜだか動けなくなった。夕焼けのなかで笑い合う子どもたちは、昔の自分を映すようで、そして、今の僕から遥か遠くにいるように思えた。

子どもの頃、僕は「早く大人になりたい」と口癖のように言っていた。それはたぶん、自由に憧れていたからだ。夜に外へ出かけることもできず、テレビゲームは一日一時間と決められ、食べたいお菓子を自由に買うこともできなかった。行きたい場所にも勝手には行けず、読みたい本も「まだ早い」と言われては、本棚の高いところに置かれた。そんな小さな不自由の連続の中で、僕は大人という存在を、すべてから解放された光のような存在だと信じて疑わなかった。

しかし今、僕はその“自由”を手にしているはずの年齢に達した。誰からも門限を決められず、財布には自分で稼いだ金が入っていて、どこへ行こうが、何を買おうが、すべて自分の意思で決めることができる。

では、今の僕は自由なのだろうか。

いや、むしろ子どもの頃よりも多くの“見えない制約”に縛られているのではないか。社会の常識、会社の規則、空気を読むという名の無言の強制力、時間に追われる生活、守るべき家族、支払うべき税金とローン。自由の形をして近づいてきたものは、いつのまにか僕を縛る鎖へと姿を変えていた。

子どもの頃、僕は自由という言葉の中に“自分の好きにしていいこと”だけを想像していた。しかし、大人の自由には責任という裏面がある。その責任は、時として自由の重さを上回る。決断すればするほど、背負うものが増えていく。それは覚悟とも言えるし、諦めとも呼べる。

大人になるとは、もしかすると“選ぶこと”の連続に耐えることなのかもしれない。選ばなかった可能性を、心のどこかで弔いながら、いま目の前にある現実と折り合いをつけて生きていくこと。子どもの頃には見えなかった、人生の曖昧さや矛盾を、そのまま抱えていく覚悟を持つこと。

それでも僕は、今の自分がすべて間違っているとは思わない。なぜなら、かつて自由を夢見た子どもだった僕がいて、その夢の欠片を今でも大切にしようとする自分がいるからだ。たとえば、旅に出たいと思ったとき、誰に相談することなく新幹線のチケットを取れる。深夜にアイスを買いにコンビニへ行ける。好きな本を、誰に咎められることもなく読み耽ることができる。そうした小さな選択の自由の中に、ほんのわずかだが、子どもの頃に想像していた“大人の自由”が宿っているような気がする。

だけど、それは同時に、子どもでいられなくなった証でもある。

今の僕は、子どもの頃に思い描いた“大人”になれているだろうか。あの頃の僕が想像したような、自由で、堂々としていて、誰にも縛られず、やりたいことをやっている大人に。

答えは、たぶん“なれていない”だ。けれど、それでいいとも思っている。なぜなら、子どもの僕が想像した大人像は、あまりに単純で、そして幻想に満ちていたからだ。

現実の大人はもっと複雑だ。自由と不自由の狭間で揺れ動き、正しさと葛藤しながら、それでも自分なりの人生を編み上げていく存在だ。

大人になるとは、幻想を脱ぎ捨て、なお希望を抱ける強さを持つことなのかもしれない。

今日もまた、責任と選択のあいだで、自分なりの答えを出しながら、僕は一歩を踏み出す。あの頃の僕に恥じないように、そして今の自分を少しでも誇れるように。

たっくす

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