歩くこと、それは自由のかたち

人は、時間に追われている。

朝の光が差し込む前に目覚ましの音が鳴り、あくびを飲み込むように身支度を整え、電車のホームへと足を運ぶ。

仕事が始まる前にメールを片付け、昼までに提出する資料の構成を頭の中で組み立てる。午後は会議があり、夕方には打ち合わせが控えている。夜になれば、明日が迫ってくる。

明日の会議のために、今この瞬間に資料を作らなければならない。

明日は朝が早いから、今夜は早めに眠らなければならない。

ひとつひとつの「今」は、いつも先の予定によって決まっている。

自分で決めているようで、実際にはただ、必要に迫られて動かされている。

あたかも自分の意志のように見せかけて、実のところ、それはただの反応だ。受け身の連続だ。

能動ではない。従属的な行動。それが、現代を生きるということの正体かもしれない。

けれど、僕はそれにすべてを預けてはいない。

週に一度、土曜日。僕はこの都市を歩く。無計画に。あてもなく。

どこに向かうかも決めていない。ただ、靴ひもを結び、風の匂いを嗅ぎながら、歩き出す。

右に行くか、左に曲がるか。

信号が青なら渡るし、赤ならしばらく立ち止まる。

そのすべての選択は、自分の中から生まれている。

誰かに言われたわけではない。

予定があるわけでもない。

必要だからではなく、歩きたいから歩く。

そのとき、ようやく僕は「今」を生きていると思える。

ビルの谷間に咲く名もなき花に目をやる。

ふと、古びた喫茶店の前で足を止める。

川沿いのベンチに座り、行き交う人々の背中を眺める。

何をしてもいい。何もしなくてもいい。

その時間だけは、僕が僕として存在していることを、はっきりと感じる。

都市のざわめきに溶け込んで、個になり、孤になり、そして自由になる。

散歩は、ただ歩くという行為に見えるかもしれない。

けれどその実、自分の足で今を選びとる、ささやかな革命だ。

誰にも管理されず、強制されず、ただ「今、ここにいる」ことを受け入れる。

スマートフォンの通知も、誰かのスケジュールも関係ない。

一歩踏み出すたびに、何かを選び、何かを見逃す。

でもそれでいい。いや、それがいい。

人は、いつの間にか「いまここ」から離れてしまった。

カレンダーに埋められた未来に、今を奪われている。

目の前にある風景より、数日先の予定の方が、ずっと重たく感じてしまう。

そんな毎日から、ほんの少し抜け出す。

それだけで、自分の輪郭が少しだけ戻ってくる。

歩いているとき、僕は計画に縛られていない。

明日を逆算しない。昨日を悔やまない。

ただ、今この瞬間を生きる。

土曜の午後。アスファルトの上を、靴の裏が擦れる音がする。

空の色は思ったよりも明るく、風の流れが頬に触れる。

そのとき、僕は「自分」でいられる。

散歩は、自由だ。

たとえ日々がどれほど予定に塗りつぶされていても、その隙間を縫って、自由は存在している。

ただしそれは、自分の意志でしか掴めない。

だから、今日も僕は歩く。

選ぶ。迷う。立ち止まる。

そして、また歩き出す。

そのすべてが、僕の「今」なのだ。

たっくす

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