人生のゴールとは何だろうと考える。
金を稼ぐことか。名声を手に入れることか。家族を持つことか。何かを成し遂げることか。
けれど、それらはすべて中間地点に過ぎない。満たされても、すぐに新たな欲望が立ち上がる。人はゴールらしきものに触れても、すぐまた走り出す。
それでも、ゴールという言葉には“終わり”という響きがある。
本当の終わりとは何か。
突き詰めていけば、それは死に他ならない。
そう考えると、人間の営みはどれもこれも、死という終着点に向かって歩いていることになる。
朝起きて、仕事に向かい、誰かと会い、笑ったり怒ったり、誰かを好きになったり、誰かに裏切られたり、喜び、悲しみ、眠り、また目覚めて、繰り返す。
その一つひとつが、少しずつ死に近づくためのステップだとしたら、いったい何の意味があるのか。
虚しい。
本当に、どうしようもなく虚しい。
けれど、人間はその虚しさをどこかで知りながら、それでも生きる。
知っていて、目をそらして、笑いながら、それでも日々を積み上げる。
思えば、ゴールとはただの通過点なのかもしれない。
マラソンで42.195キロを走り切った後、そこには「終わり」があるが、選手の人生は続いていく。
受験に合格しても、結婚しても、昇進しても、その後の日々は続いていく。
ゴールは終わりのようでいて、ただの節目に過ぎない。
だが「死」だけは違う。
この世において唯一、そこから先の記憶も感情も、経験も失われる地点。
つまり、人間にとっての絶対的なゴールは、やはり「死」しかない。
そうすると、すべての行動も思考も選択も、死に向かう一歩に過ぎないということになる。
どれだけ丁寧に日々を生きても、結局は土に還る。
それがわかっていながら、それでも人は今日を生きる。
不思議なことだ。
いや、むしろ、その不思議さこそが人間らしさなのかもしれない。
死を知りながらも、愛することをやめない。
終わりがあると知りながらも、希望を描く。
すべてが消えていくと知っていても、何かをつくろうとする。
そんな矛盾した存在が、人間なのだと思う。
今、僕はプロセスの中にいる。
この文章を書いている今もまた、死へ向かう一歩であり、同時に生の只中にある。
生きているということは、プロセスの只中に立ち続けるということだ。
前にも後ろにも動きながら、止まらずに変化していく。
そこに、意味を見出すしかない。
人生における「ゴール」は、死だ。
それは揺るがない事実。
だがそのゴールに至るまでの道は、無数にある。
どれも正解であり、不正解でもある。
だからこそ、プロセスに価値がある。
歩くことそのものが、生きるということになる。
僕たちは、みんな死に向かって生きている。
それは悲しいことのようにも思えるし、逆に安らぎにも思える。
この生は、ゴールに向かう旅の途中。
それなら、せめて自分なりの歩き方で、自分なりのリズムで進めばいい。
焦らず、奢らず、ただ、しっかりとこの一歩に集中していく。
プロセスの中にしか、生の実感はないのだから。
たっくす
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